世界一尊敬してる人物は「父親」
年末年始、実家に帰省するにあたって、このテーマについて記事にしようと思う。
あなたが世界一尊敬している人物は誰??
学生時代の恩師か、憧れのロックバンドか、世界有数の大企業の社長か、はたまた歴史上の偉人か。
もしくはまだ出会ったこともないかもしれないし、考えたこともないという人もいるかもしれない。
その点僕は、人生が始まってまもなくして、その人物に出会ったことになる。
父親を尊敬しているという人って珍しいのかな?僕の周りではあまり聞かない。
ちなみに「今まで育ててくれたから」とかいった理由などではない。
(勿論感謝の気持ちはあるが、そんな理由で記事にはしない…)
僕は今東京に住んでいて、年に何度か田舎の実家に帰省するのだが、その理由は父親に会いに行くという目的が大半を占める。
何から話せば良いか迷うのだが、とりあえず簡単に紹介。
父。40代半ば。
釣り、狩猟、自転車、登山、マラソン、DIY、、、といった趣味が多様。
と、こんなかんじ。
これだとただの多趣味のおっさんみたいな印象でしかないと思うのだが…笑
「趣味が多い」ということ、それだけでも素晴らしいのだが、彼の人生に対する考え方がそれにつながっているし、見習うべき点であると僕は思うのだ。
まず、彼の嫌いな言葉に、「歳だから、〜」というものがある。
人は20歳あたりで成長のピークを迎え、そこからは心身共に老いていく事実がある。
そんなの当たり前だと思うかもしれないが、しかし彼はこれを半ば否定している。
「成長、勉強を辞めた時に人は老いる。」
この言葉の意味は彼が、自身の人生をもって体現してくれている。
小、中、高、大学といったかんじに教育を受けるのが一般的だが、それらを修了して社会に出ると、学ぶ過程は終わったと思っている人が大半なのではないかと僕は思う。
しかし本当にそうだろうか?
学校で教えてくれることが全てなのか?
むしろ社会に出てからの方が、わからないものに触れたりする機会や、それらから受け取る知識などは絶対に多いはずだ。
当たり前だが学校に通う十数年よりも、社会に出てからの人生の方が長いのだ。
人生は学びの連続だ。
僕は何歳になっても、生きている限り学ぶことを辞めない。
父もそうだ。五十歳を目前にして、日々新しいことに挑戦し続けている。
今僕は23歳だが、そんな父親のように生きていきたいと思っている。
しかし、先ほど話した「成長、勉強を辞めた時に人は老いる」ということは理解できたとしても、身体はどうだろうか。
シワが増え、体は固くなり、感覚が鈍り、筋力や体力が減る。歳を重ねるごとに衰えていくのは揺るがない事実だ。
しかし僕の父は、その定説を批判する。
「え、じゃあ歳取らないの?不老不死なの?」と思った人もいるかもしれないが、そういうことではない。
わかりにくいと思うので、今までの彼の人生を振り返って具体的に話す。
僕は小学校で野球をしていたのだが、中、高校は陸上部だった。
中学で陸上を始めた僕に影響されて、彼はマラソンを始めた。
近所を一緒に走ったり、マラソン大会に出たりすることもあった。
高校を卒業した僕は陸上を辞めたが、彼は今でも、走れる身体を維持している。現時点で、比べるまでもなく僕より遥かに体力面で優っている。
更に、実家には父の自作のベンチプレスが置いてあり(それもそれで凄いが…)、日課として筋トレをする。
ちなみに父は学祭時代から、卓球、剣道、バドミントンと多方面のスポーツで、好成績を収めるスポーツマンだった。
しかし、その輝かしい実績を収めた学生時代と、二十数年経った今現在とでは、筋力や体力などの身体能力は比べるでもないくらいに格段に成長しているのだ。
歳を取ることは当然細胞が古くなり体力は衰える。しかし彼は成長を続けている。
今までの話をまとめると、つまり人は年齢に関係なく心身共に成長することができるということなのだ。
多くの人は、「この歳になって」とか、「もっと若ければ」などと、年齢を言い訳にして新しいことに挑戦したり、成長する努力を怠る。
しかし先ほどまで話していた父親の話を踏まえた上で「歳だから、〜」とは、全く理にかなってない主張だと感じられないだろうか。
僕自身、「歳だから?歳だから何?」と思ってしまう。
勿論「老いを完全に止め、永遠に成長し続けられる」というような極端な話ではない。
「老いを理由に成長することを辞めた人間、またはその思想」を批判しているのだ。
確かに人は老いる。
しかしその自然の摂理に全てを委ねて、なすがままに死んでいく人と、今ある生に対して全身全霊で向き合い、意識的に自分の生を全うしようとしてる人、どちらが魅力的だろうか。
僕はそんな父親の生き方、思想をとてもカッコいいと思っている。
実際、まだ僕自身若いが、社会に出た今でも学ぶことを辞めてない。
日々勉強している。
留学に行ったのもそれが理由だ。
いくつになっても日々成長することを辞めず、死ぬまで成長し続けようとする父親のようになりたいと思っている。
まだまだ父親のことは書き足りないのだが、今回はこの辺まで。
文字だけだと寂しいので、最近父親から送られてきた写真をなんとなく添えておく。
かっこよすぎ。
留学レポ#9 -フィジー人の国民性-
今までの記事で、ホストファミリーのことについては書いてきたけど、今回は別の視点。
国民性とか概要はいくらでも調べて書くことができるけど、今回は僕がそこで暮らし、肌で感じたリアルから、フィジー人という人々についてを書いていこうと思う。
▼前回の記事はこちら
学校の授業はもちろんだが、生活の中、コミュニケーションから英語を学ぶことはとても効果的だと思う。
色んな人と接して、会話の中で英語力を養っていく、実戦トレーニングだ。
それだけでなく、単純にせっかくフィジーに来たんだからたくさんの現地の人と話してみたいという気持ちも強かった。
⚫︎公園で子どもたちと遊ぶ
僕が通っていたラウトカキャンパスの近くに、チルドレンパークという大きな公園があった。
いつも多くの子どもたちが遊んでいる。
ここに突撃しない手はない。
さっそく遊んでいる子どもたちの輪に混ざろうと試みるが、子どもたちにとっては見たこともない外国人。
肌の色も違うし言葉も通じない。
ものすごく警戒される…
しかし何度も話しかけていると、徐々に心を開いてくれたりもする。
しかしここで問題が。
フィジー人はフィジー語と英語を話せるが、英語は学校で習うため、小学生以下の子どもは英語がわからない。
せっかく勇気を持って話しかけても、英語が通じないので会話ができない…
現地の人と英語でコミュニケーションするという目的が達成できないではないか。
そんなかんじで会話はできずとも遊具で子どもたちと遊んでいると、親御さんに話しかけられた。
「君たちそこの学校の生徒?」
「どこの国から来たの?」
子どもたちと遊んでいる自分たちを、木陰で様子を見ていた保護者グループが話しかけてきてくれたのだ。
子どもたちと一緒に遊んでいたことで好印象を持ってくれたのかもしれない。
そこからは色んな話をすることができた。
もちろん言ってることがわからないこともあったが、こちらが英語が得意でないことがわかると、気を使ってゆっくりと話してくれたりする。
ずっと話してる間にお互い心を開き、
「今度うちに遊びに来なよ」とまで言って頂けるほどに、、、
▼子どもと戯れる僕
⚫︎消防士とバレー対決
学校の授業の一環で色んな施設を紹介、案内してくれる機会があった。社会科見学のようなかんじ。
いくつか回ったのだが、消防署に行った時のことだ。
見学が終了して解散する時に、一緒に写真を撮ってもらった。そしたら急に、
「学校何時に終わんの?今日の18時からここでバレーするから来なよ」と。
「そりゃあもう是非!」
友達4人と約束の時間にまた消防署へ戻ってきて、現地の消防士たちと一緒にバレーすることになった。
本当に凄い国だ。
日本でこんなことあり得るのか?
なんなら勤務中だぞ…
今火事が起きたらどうするの?と少し不安にも思うが細かいことは気にしない。笑
かれこれ2時間くらいぶっ通しで試合を続けた。
終わった後も、「また来てよ!毎日やってるから!」と誘っていただいた。
毎日…?毎日やってんの…?
⚫︎道路の真ん中でラグビー
ホームステイしている家の前でよく、近所の若者達がラグビーやバレーをしているのをよく見かけることがあった。
子ども、大人、男女関係なく遊んでいる。
例によって「混ぜてー!」と突撃。
もちろん快諾。
サッカーやバレーをしていたのだが、次はラグビーをやる流れに。
学生の時に体育の授業などでサッカーやバレーはやったことがあったが、ラグビーはやったことないし、ルールもよくわからない。
しかし物は試し。
フィジーに来てからの僕は、遠慮という概念が薄くなっていたし、ひたすら好奇心で動いていたのでとりあえずやってみることに。
フィジーは国全体を通してラグビーが盛ん。今年日本でもラグビーが話題だったが、フィジー代表も毎年世界一の座を争うレベルの強さ。
もちろん一般の若者達もラグビー大好きだし、めっちゃ上手い。
混ぜてもらったけど、ど素人が混ざったところで、全く話にならない…笑
けど楽しかったし、やっぱり終わった後はとても仲良くなった。
⚫︎まとめ
この他にも、道で遊んでいたりスポーツをしてるのを見かけたら、とりあえず参加していた。
全部書いたらキリがないが、断られたり嫌な顔をされたことは一度もない。
日本だったらどうだろうか。
見ず知らずの人が急に、仲間内で遊んでいる輪に入ってきたら…
まず「え、どちら様…?」となりそうなところだ。
しかしこの国では、あなたが誰であるとか、会ったことがある、無いとかは特に関係ないように思えた。
優しいというよりも、シンプルといったほうがしっくりくる。
「俺たちと一緒に遊びたいの?じゃあ友達だね」みたいな感覚。
この国で過ごしていると、大切なことに気づかせてくれる。
「みんな同じ人間なんだから仲間だよね。仲良くしようよ。」とみんなが言ってくれてるような気がする。
この国で見つけた発見は、僕のこれからの生き方に大きく影響してくれる大切な財産になったと思う。
▼次の記事はこちら
ブログ始めて1週間。成果は?
ブログを始めて留学レポシリーズを毎日更新、無事一週間を達成できたので成果報告。
総アクセス数198。
最低は25日の9、最多はその翌日の26日の55。
多分この日は初めてグループに入ったから急激にアクセスが増えたのだと思われる。
だんだん増えていく訳でなく、比較的一律で平均10〜15アクセスくらいかな?
どの記事がどれくらい読まれてるかとか、需要がどうなのかとかの分析ができない。。
どうやったらアクセス数伸びるんだろう…
初めて一週間だとこんなもんかな?基準がわからない…
ブログの書き方も色々模索してはいるものの、どれが正解かは現時点ではわからないな。
まあまだ始めたばかりだから、とりあえず数をこなしていくしかないか。
ただ闇雲に書くわけじゃなく、ある程度試行錯誤しながら続けていけば段々掴めてくるだろう。
読者は15人。
本当にありがとうございます…!🙏
文章作るの下手だし、使いこなせてもないくてブログとして成立してるのかもわからないけど、それでも読んでくれている人がいるというのは感謝の一言に尽きる…
あと、感想とか、こうした方がいいなどのアドバイスやここがダメっていう改善点なども、コメントでくださると嬉しいです。
これからも毎日更新を続けて、日々精進していくので温かい目で見守って頂けると幸いです。
これからもどうぞ宜しくお願いします!
改めて自己紹介と、今続けてる留学レポシリーズの記事を↓に貼っておきます。
▼自己紹介
▼留学レポシリーズ第一話「留学レポ#1 」
▼最新話「留学レポ#7」
留学レポ#7 -言葉が通じなくても仲良くなれる-
昨日の記事で、「言葉とは僕たちが思っているよりも不完全なものである。」といった内容で自分の考えを長々と書いたのだが、今回のテーマも「言葉」。
言葉が通じなくても人は仲良くなれるのか?についてである。
人間関係で悩んだことがある人には是非とも読んでほしい。
▼前回の記事
ホームステイ生活が始まって数日経ったある日のこと。
ホストファミリーはとても親切だ。
しかし、少し引っかかることがあった。
このお家の二十歳の息子。彼があまりちゃんと話してくれない。
というか、一切僕に興味がない。
挨拶はして返してくれるものの、両親のように気にかけて向こうから話しかけてくれたりは一切ない。
ホストファミリーとの関係を良好に保つことは、この留学生活の充実度に大きく影響する。
ある日、僕が家のソファーに座っていたら、1つ開けて隣に彼が座ってきた。
話しかけるチャンス。
しかしいつもと同じく何気なく話しかけても、会話は広がらず、何も変わらない。
僕は考えた。
考えた結果、彼に一枚の写真を見せた。
留学の数週間前の12月に、趣味のスノーボードに行った時の写真だ。
「これ日本だよ」
と言ったら、
「まじで!?」と、食いついてきた。
というのも、フィジー には雪が降らない。
辺り一面に雪が降り積もってる光景を見たことがないのだ。
その他にも東京のビル群の写真などを見せ、日本について話を広げた。
彼はとても興味を示し、いくつか質問をしてきた。彼の方から僕に話してくれることは今までなかった。
これをきっかけに彼との距離が一気に縮まった。
それからというもの、「ヤシの実もらったから見る?」と、今晩の夕食に使うヤシの実を割るところを見せてくれたり、
「散歩行くけど一緒行く?」と近所を散歩したりした。
以前の記事でも書いたが、最初は一切自分に興味を示さず全く話してくれなかった彼と、いつのまにか兄弟のような感覚で接するまでの関係を築くことができた。
この関係も、言葉だけでは築くことができなかったといえる。
人生の中で、人間関係が上手く築けなかった、という経験は誰しもあるのではないだろうか。
僕も今までに思い当たる節はいくつもあるし、非常に悩ましいテーマだ…
しかし上手く行っていなかった関係も、少しの工夫をするだけでこれだけ一転することがあるのだ。
「この人とはやっていけないな」と早々に諦めたりと、近づくチャンスを自ら手放していたりするのではないだろうか。
思い返してみれば、一見して相性が悪いなと判断していた人も、ちゃんと話してみれば実はすごく自分と馬が合った、ということも少なからずあった。
こちらから一生懸命に話しかけても一向に興味を示してくれなかった彼だが、一枚の写真を見せただけでこうもあっさり心を開いてくれた。
人間関係とは複雑なようで、実は至ってシンプルなのだ。
もし今この文章を読んでいる人の中に、人間関係で悩んでいる人がいるのなら、一旦俯瞰してシンプルに考えてみて欲しい。
「この人は無理」と感情に任せて一方的に拒絶してしまってはそこで終了だ。
ほんの少し工夫をすれば改善できるかもしれないのに、初見で「無理」と判断して、もはや好転させようとする気すら無い。
まだ実は試してないことがあって、改善できることがあるのではないだろうか。
また、初めから気が合う人よりも、そういった経緯を経た上で築いた関係というものは特別で、より深い関係になれるのではないかとも思う。
僕にも今後の人生の中で、苦手だなと感じてしまう人は必ず現れるだろう。
しかし、「言葉が通じなくても仲良くなれた」というこの経験あったから、すぐに諦めず「どうしたら仲良くできるか」をまず考えることができるようになった。
抱えてる問題は実は単純で、案外簡単なことで解決策は見つかるかもしれない。
▼留学レポ、次回の記事はこちら
留学レポ#6 -語学学校-
学校生活について書く前に
重要なとこが抜けていたので書く。
▼前回の記事
そもそも、なんでフィジーを留学先に選んだかを書くのを忘れていた。
結論から言うと、「安かったから」。
元々海外に憧れていたり、行ってみたい国があるわけではなかった。英語圏であるならばどこでもよかったというのが正直なところである。
初めはオーストラリアのワーホリに行こうと考えていた。
その時点では全くの無知だったので安直に決めていたのだが、費用や目的など様々な要素を照らし合わせた結果、
「英語圏であり、面白そうな文化を学べそうで、そして安い。」
そんな要望に最もフィットしていたのがフィジー留学であった。
ということで本題。以前そこまで詳しく触れなかった学校生活について。
留学するに当たって、現地での生活や、現地人とのコミュニケーションなど色々なことを想定して、一応心の準備はしていたのだが、肝心なことを忘れていた。
「そうか、まず他の生徒との関わりが先だった…」
日本の留学の会社が運営している学校なので、生徒はほぼ日本人。(あとは韓国人がちらほらいた。)
迂闊だった。
日本人と関わることは想定してなかった。
僕は重度の人見知りである。
しかも僕が通う学校の方針で、校内では英語しか使ってはいけないのだ。
初対面の人と話すことがそもそも苦手なのに加え、英語縛りときた。超ハードル高い。
しかしここを疎かにすると充実した学校生活に支障をきたす。慎重にいかなければ…
生徒はほぼ日本人だが先生は全員フィジー人。もちろん日本語は通じない。
授業でわからないことがあっても日本語で聞けない。
わからない英語に対して、英語で質問し、英語で説明されるのだ。
これ授業成り立つの…?
▲授業風景
色々縛りプレイというか難易度高め設定のルール。先が思いやられる…
しかしそんな不安要素も実際に生活を送っていると、大したことなんてないということに気づく。
他の生徒は見ず知らずといえど、留学という同じ目的をもった同志なのだ。
色々な価値観の人がいる中で同じ目的のためにここに集っている。共通の目的は仲間意識を生む。
そしてみんな不安だ。自分一人だけではない。不安を共有できる繋がり、みんな助け合える仲間なのだ。
先生も、僕たちが日本人で、慣れない環境での生活をスタートさせたということを勿論知っているし、そういう生徒たちを今まで腐る程見てきたはずだ。
難易度高めの縛りゲーかと思いきやそこは、みんなで助け合え、成長し合える空間だったのだ。
僕は英語は話せないけど、レベル毎に分けられたクラスなのでそれはみんな一緒。みんな話せない。
先生も僕たちに合わせてゆっくりと簡単な英語ではなしてくれはするのだが、、
そこで思うのは、
そもそも「言葉」というのは絶対的に必要なものではないのかもしれない。
言葉というのはコミュニケーションする上で使われるツールのうちの一つでしかなく、それは必ずしも万能であるとは言えない。
誰しも感じたことがあるであろう、「言葉でも伝わらない」という経験から分かる通り、
「言葉」というものは僕たちが思っているよりも、ずっと不完全なツールなのだ。
完全なものだと思い便利だからと乱用し、言葉に依存しているとも捉えられる。
大切なのは発する言葉そのものではなく、その根底にある想いなのだ。
と、自分の考えを長々と話してしまったが、、、
これは留学を通して身をもって体感した気づきだ。
言葉が通じないという環境に行かなければ見つけられない発見だった。
まあでも、そんな不完全なツールであったとしても、そこをはっきりと分かった上で使う分には、使えこなせるようにならない手はない。
そもそも語学を学びに来ているのだから「言葉は不完全!」とか言い出して授業を放棄したら元も子もない。笑
でもやっぱり、「勉強はめんどくさい」という意識は自分を含め、みんなの中にあるのではないだろうか。
学生だった頃を思い出すと、授業は退屈で難しいし、テストや課題に追われた嫌な経験しかない。
しかし、好きなこと、好きな分野について調べたりする時間は苦ではない。知的好奇心というものはみんな持ってる。人は知識を欲する。
本来、学ぶことは楽しいはずだ。
「学校」というシステムについても色々思うことがあるので、今後自分の考えを書くことがあることがあるかもしれないが今回は省く。
簡潔にまとめると、「学び方によるよな」となる。
楽しく学べば、苦ではないので続けられるし、自然と頭にも入る。学び方が大切。
そういった意味では留学は最高の環境であったともいえる。
日々の授業も、知識を一方的に詰め込んでくる日本の学校の授業環境とは全く違う。
席に座ってるだけでなくゲームやアクティビティ系の授業も行われるし、何より明るく陽気なフィジー人の先生の授業は面白い。
自然に楽しくなってくる。
放課後も、校庭で先生、生徒関係なくバレーなどをしたりする。
日本語を使ってはいけないので(まず先生に通じないし)自主的に英語を使うことになる。
「勉強をしている」というよりも「遊んでいる」に近い感覚で英語を学ぶことができる。
繰り返しになるが、「学ぶこと」は本来楽しいことなのだ。
仕事や人間関係など、社会は学びの連続だ。
勉強を楽しいと思えれば自然と知識は身につく。知識は人生を豊かにしてくれると思う。
この感覚はとても大切だと思うので、忘れないようにしたい。
今回は文章量多めで、2000文字を目標に書いてみたのだが、やっぱりものすごく時間がかかる…
それに加えて内容に一貫性を求めるとなるとなおのこと難しい…
この「毎日ブログを書く」ということも、失敗して試行錯誤を繰り返したり、続けた行く中で新しい発見があったり、日々勉強である。
書いていて楽しいので、既に「楽しく学ぶ」を実践できてる。と思ってる。
長くなってしまったけど、最後まで読んでくれてありがとうございます!!
ではまた次回!