ropolis note

社畜、ニート、海外滞在などの経験をもとに、自分なりの人生に対する考え、哲学をお届けします。

箱根駅伝を見ると血が滾る…

f:id:ropolis:20200102183149j:image

お正月休み。

この時期になると箱根駅伝をテレビで観るのが毎年恒例という人も多くいると思う。

僕はそこまで熱を持って見入る訳ではないのだが、心の奥底から青春時代の記憶が思い起こされる感覚に陥る。

 

というのも僕は、中高で陸上部に所属し、種目は中長距離を専門としていた。

 

「長距離種目」と聞くと、大半の人が嫌悪感を示すのではないだろうか。

学生時代に体育や運動会などで半強制的に走らされた、辛く苦しい時間が長く続くあの記憶…

実際僕が「陸上部で長距離を走っていた」と言うと、やはり「走るの嫌い」とか「なにが楽しいの?」とか、よく言われる。

 

この記事を読んでいる人の中にも同じように、長距離種目のみならず、走ることそのものが嫌いな人も居ると思う。

 

そんな人に、陸上部長距離種目歴6年の僕が、陸上の魅力と、陸上選手のカッコ良さを伝えてみようと思う。

 

先程、「そもそも走ることが嫌い」と言う人がいるといったがそれは、運動全般が嫌いというわけではないのだ。

他の運動部に所属していて、バスケやサッカーなどが好きな人でも、走ることが嫌いな人は多い。

しかし、それらの球技では走らなければ成り立たないスポーツは多い。

 

つまり「走ること」はすべてのスポーツの基礎ともいえるのだ。

 

それが分かった上でもやはり「走るだけだとつまらないし、しんどい」と言う人もいる。

 

確かに。他のスポーツに比べるとルールは少ないし、至って短調で地味だ。

長距離種目ともなると、その上長い時間苦しまなければならない。

側から見ると、「なぜわざわざそんなことしなければいけないの?」と思ってしまうのも無理はない。

 

しかしそのシンプルなルールの上で行われる長距離種目ならではの魅力がある。

 

例えば、野球と比較してみる。(少年野球経験もあり。一応エースだった。)

野球のルールは複雑で、攻守の交代や、得点性、一発逆転が起こる可能性があり、なんといってもチームプレイなので、チームとしての団結力や絆、見せ場も多いし盛り上がる。何よりカッコイイ。

 

それに比べてて陸上競技(走、跳、投、と様々な競技があるが、比較しやすいようにこの場合は「走」にスポットを当てる。)

ルールは簡単。走ってゴールを目指すだけ。

 

こうして比較してみるとやはり、つまらなく、ただしんどいだけのスポーツだと思えてきてしまう。

 

しかしこう考えてみてはどうだろう。

守備が苦手な分、バッティングでカバーするとか、自分の得意不得意のパラメーターに沿ったプレイ、ポジショニングで自分の長所を活かせるし、仲間と協力し助け合える野球。

 

それに比べて陸上は、シンプルだからこそ、小細工は通用しない。

速ければ強い、遅ければ弱い。

ただそれだけ。

個人競技なので誰も助けてくれない。自分だけの戦い。

 

 

あと、「つまらないししんどい」という意見についても思うところはある。

なんのスポーツをやるにしても、本気で取り組めばしんどいはずだ。しかし、他のスポーツと比較すると、「走るだけだとしんどい」と言う。

他のスポーツでも走っているのにも関わらずだ。

 

つまり先程の野球の例でも挙げたように、複雑なルールや、見せ場や、盛り上がりなどで、紛らわせて誤魔化しているだけなのでは、と僕は思ってしまう。

 

誤魔化しが効かない陸上競技では、そのしんどさ、辛さと真っ向から向き合うことになる。

まさに自分との戦いなのだ。

 

自分と戦うことが苦手な人には陸上、特に長距離種目は向いてないと思う。

更に言ってしまえば、自分と戦うことを避けて生きていく人を魅力的だと思えるだろうか。

 

だから、箱根駅伝をはじめ、陸上競技の大会で走っている人をみると、素直にカッコイイなと思える。

 

自分と戦っている人はカッコイイ。

僕は陸上をやっていたあの頃の自分が好きだし、誇りに思っている。

 

あの時にしんどかった、苦しかった経験、それに負けそうになる自分を奮い立たせて戦っていたあの瞬間。

それらは身体に染み込み、今も自分の弱さと向き合う時に背中を押してくれているような気がする。

 

と、後半は少し思想が強めに出てしまったが、陸上に対する想いは強いしまだ書き足りないなとも思う。

もう少しテーマを絞って、「駅伝」や僕が高校で専門としていた「800m走」について今後書いていこうかなと思う。

あとは野球や、「スポーツそのもの」についてとかも。

 

ではまた。

 

漫画から学ぶ人生哲学「進撃の巨人」

漫画とは、ただ単に物語を楽しむだけでなく、時には自分の考え方や価値観に大きく影響を与えてくれることもある。

 

そういった漫画に出会ったことがあるという人も多いのではないだろうか。

 

今日は漫画進撃の巨人から、そのメッセージを僕なりに解釈して説明していこうと思う。

 

 

(※ここからは一部ネタバレを含みます。これから読みたい人は注意!)

 

人間を食らう巨人が世界に溢れており、その脅威から逃れるために人々は高さ50メートルの三重の壁を築いた。壁の中にしか人類は存在しておらず、巨人や外の世界については謎である。

 

ある日超大型巨人が出現し壁を蹴り破り、壁の中に巨人が侵入。束の間の平安は崩れ、巨人との人類存亡をかけた戦いが始まる。

というところから物語が始まる。

 

 

僕はこの漫画が大好きなのだが、僕の周りではアニメで部分的にだけ内容を知っていたり、途中までで読むのをやめてしまったりと、物語を追いながらも、その真意を読み解こうとまでしている人は少ない。

 

物語の序盤は「壁の外から迫る脅威と戦う」というとてもわかりやすい展開であるのに対し、次第に人同士の争いへと発展していく。

 

それぞれの組織や人の思惑があり、裏をかこうと策略を立て、騙し合い暴き合いの心理戦が続くシーンもある。

 

多くの人はこれを難しく、退屈と感じてしまうのだと思う。

だから序盤の“わかりやすい”話までは読んでいたけど、人同士の複雑な展開になってくるとついていけなくなるのだ。

 

僕はその中盤からの展開こそがこの物語の真髄だと思っている。

 

 

特に僕が着眼したのは、正義や悪という概念についてだ。

 

というのも、この漫画には悪役が登場しない。

あからさまに極悪非道であり、いかにもな悪人というものが出てこないのだ。

 

主人公と敵対する派閥、組織の人間がいたとしても、彼らには彼らなりの思想、正義があり、それらを守る為に戦っている。

人を騙したり、裏切ったり、殺したりする人もいるが、そこに悪人などはいない。

ただ人がいるだけである。

 

これは、現実の世界にも言えることではないのだろうか。

 

そもそも世の中の出来事を善悪などでは判断できないのだ。

歴史を見てみれば、今では考えられないことが当たり前だった、ということはいくらでもある。

 

正義や悪などといったものは主観でしかなく、時代、国、人によって大きく異なるのだ。

 

「正しさ」とは曖昧で脆い。

これは日常生活の中でも生きる考え方なのではないか。

身の回りにいる人、これから出会う人、すべての人々に、それぞれの正義や悪の概念があり、時には互いに相容れない価値観の人と対面することもあるはず。

しかし、先程まで書いたことを念頭に置いて人と接していれば、そこでぶつかることなく相手の価値観を受け入れ、接することができるのではないか。

 

 

そうやって漫画から、考え方を学ぶことができる。

漫画は人に感動を与えもするし、生きていく上で重要な人生哲学を享受してくれもするのだ。

幸せに生きる絶対条件

あなたは今、幸せだろうか?

 

この問いに「はい」と自信を持って即答できる人は中々いないのではないだろうか。

 

僕はふとした時に、自分に問いかける。

 

日本という恵まれた国に生き、寒さに震えたり、飢えに苦しんでもいない。蛇口をひねれば水は出るし、指も5本ずつ生えてる。

とても幸せ者だ。幸せな環境で生きることができている。と、確認作業を時折行う。

 

マズローの五段階欲求説」も有名である。

  1. 生理的欲求
  2. 安全の欲求
  3. 所属と愛の欲求
  4. 承認の欲求
  5. 自己実現の欲求

 

この五段階の欲求を人間は誰しも持っている。

1を満たした段階で2を求め、2から3、3から4、といったように今ある欲求を満たすと、次々に更に上位段階の欲求が生まれるという仕組みを表したものだ。

 

このように「幸せ」に関する考え方は色々とある中、僕なりの幸せな生き方についての考えをまとめてみた。

 

それはずばり、

「死を意識した時、人は生を全うできる」というものだ。

 

※ここからは「生死」に関する内容を含むので、敏感な方や、人によっては不謹慎に感じてしまう可能性があるので、注意してほしい。

 

まず、余命宣告を受けたガン患者は、残りの余生をどう生きるのか、という例を挙げる。

 

自分の死が間近であることを告げられれば、誰しも絶望することだろう。

しかし、自分の死を見つめるということは、残りある時間に真正面から向き合うことに繋がる。

 

余命2ヶ月と宣告されたとある末期癌患者が、昔からやりたかった登山をそこから始め、エベレストの登頂を果たし、1年、2年とその後も生き、数々の山へ挑んでいくというエピソードを聞いたことがある。

 

 

死を意識してから、それからの人生についての考え方、生き方が、ガラッと変わったのだ。

他にもいくつか似たような話を知っているが、要約すると、「死に屈することなく、限られた命の中でどう生きるか」を考えることが重要ということだ。

 

 

ここまでの話を理解、共感してくれた方は是非、自分自身のことだと思って読んでほしい。

 

先程はわかりやすいように、余命宣告を受けた末期癌患者を例に挙げたのだが、何もその条件に限った話ではなく、全人類に言えることなのだ。

 

必ず来る終わりが、早いか遅いかだけだ。

つまり「残りの寿命」と、「自分の自分の人生に対して真っ向から向き合い一生懸命に生きること」は全く関係ない。

 

いつか必ず訪れる死。

それが明日だろうが2ヶ月後だろうが、70年後だろうが、今この瞬間を全力で生きることが重要なことには変わりないのだ。

 

 

日々それらを意識していれば、毎日をいきいきと生きられるのではないかと僕は思う。

 

「死を意識した時、人は生を全うできる」

これは僕の持論の中でも中核を担っており、考え方のベースになっているといっても過言では無い。

音楽と記憶にまつわる話

音楽を聴くと、その曲を聴いていた当時の記憶が呼び起こされるといった経験は誰しもあるのではないか。

 

普段閉じている記憶をしまった引き出しを開ける鍵の役割を果たしていると感じる。

 

また、これは僕個人の感覚の話なのだが、そのように呼び起こされる記憶というものには共通点があるようにも思える。

それは、「圧力」だ。

 

その圧力とは広い意味で、青春の日々、恋愛、仕事や人間関係など何かしら自分に大きく影響を与えるものと共存していた日々。

それらによって受けていた圧力が、強ければ強いほど、その当時に聴いていた音楽に記憶を深く絡めて引き出しにしまっているような感覚だ。

 

 

この引き出しが鍵によって開く瞬間が好きだ。

 

しかし、僕は好きな音楽をあまり聞かない。

それはなぜかというと、音楽で記憶の引き出しを開ける作業を何度も繰り返していると、その音楽が鍵としての役割の力が薄れてくるからだ。

 

昔聞いていた音楽を聴いて、当時の記憶を呼び起こしてると、そのうち「昔聴いていた音楽」という事実から、「最近聴いている音楽を」に上書き保存されてしまう。

 

記憶の引き出しを開ける鍵ではなく、現在進行形の好きな音楽として認識されてしまうのだ。

 

だから僕は好きな音楽を、ここぞという時以外、無闇やたらと聴くことを避けている。

 

好きな音楽は、そのときの記憶の中に閉じ込めておきたいのだ。

そしてたまに無性に会いたくなった時に、会いに行く。

最近の若者は“つまらない”?

実家に帰省しました!

2週間ほどいる予定なのだけど、この期間は、留学レポシリーズをお休みして、自分の考えたことや自分なりの哲学などを記事にしていこうかな〜と考えてる。

 

 

というのも、元々ブログを始めるにあたって、留学のことは書くつもりだったが、こんなに長編で書く予定ではなかったのだ。

 

普段の生活の中での気づきや、悩んだこと、またその悩みに対してどう乗り越えてきたかや、本などで勉強した哲学、心理学、考え方など、自分が生きていく上で大切だと思っていることを、他の人にも共有したいという思いが強いのだ。

 

 

同じことを考えている人と共感しあったり、普段そういうことをあまり考えない人が考えるきっかけになればいいな〜と思っている。

 

今日の話は、昨日の記事にも関係してくる内容になっている。 

ropolis.hatenablog.com

 

昨日の記事でも書いたとおり、僕は父親を尊敬している。

年齢を言い訳にせず。日々成長することを怠らない。

好奇心が旺盛で、新しいことに興味を示しチャレンジする。

目の前のことに一生懸命で、努力する過程すらも楽しんでいる。

 

僕にとってそういう人はとても魅力的だと感じる。

しかし、僕の周りにはそのような魅力的な人が極めて少ない。

なんとなく惰性で生きていて、仕事のことで精一杯。好きなことに向き合う暇も、気力もない。

 

 

父の周りはそうではない。

父親ほどまでとはいかずとも、父の年代の人々は前提としてそれらのことを理解している人が多いと感じるのだ。

 

今の若者と、父親世代が若かった頃では価値観が違う。

 

人によってその差はあるし、微妙な違いだとも思う。そしてあくまで僕個人の偏見を含んだ主張ということを分かった上で読んでもらいたい。

 

 

今と昔の若者のちがい。

「昔」というと抽象的なので、父親の年齢から計算するに20年くらい前、と規定する。

 

簡単に整理すると、昔の若者は魅力的で、今の若者はつまらない。となる。

何故なのか。

 

 

昔は今と比べて科学技術が進んでない。代表的でわかりやすい例を挙げるとスマホの有る無しだ。

 

昔の若者、特に田舎の若者は娯楽が少ない。

(父親の話を聞く限り、麻雀したり釣りをしたりが主だと感じる)

しかしそれだけでは遊びのネタが尽きるのだ。退屈になる。

そうなると人は、自分で考えるのだ。

何か面白いことはないか、こう工夫すれば面白くなるのではないかと、つまらない現状を変えるべくアイデアを絞り出す。

 

ここが重要なポイントだ。

 

一方、今の若者はどうだろうか、テクノロジーの進歩で、手の届く範囲に娯楽が腐るほどあるのだ。

だから自分で面白いことを探したり、追求したりしない。

 

具対的にいうと、「承認欲求」という非常に強い欲求を人は持っている。

これは非常に強力で、依存度が高い。

何気ないつぶやきに対して「いいね」を貰ったりお互いにフォローしあったりすることで、承認欲求が満たされ、エンドルフィン(脳内麻薬)が分泌される。

 

SNSの台頭で、何か物足りなさを感じたり、寂しさを感じたりしても、手のひらサイズの板の上でほとんどのことが解決してしまうのだ。

自分の頭で考え探さなくても、欲を満たせてしまう。

 

 

一方昔の若者はそうではない。

人生を楽しくするためには、自分の頭で考え、足を運び、手を動かさなければならないし、そういうことをみんな知っている。

そして新しいことに挑戦したり、行動を起こすためにはエネルギーが必要だということも知っている。

 

人生を楽しくすることとは、そう簡単ではなくて、楽しく遊ぶためにはそれ相応の労力が必要だ。という共通認識をみんな持っているのだ。

 

 

時代が変わった今もそういった意識は、潜在されているはず。

そこは見習うべき点であると思う。

 

 

現代の、スマホで欲求の処理を済ませて、楽しむことへの努力を怠る若者に、少しだけでいいので考えて欲しい。

本当にそれが幸せかなのか。

 

人生を楽しくするためには、新しいことに挑戦することや、行動を起こすことが必要で、それらはそれなりの労力が必要なのだ。

 

 「楽しいこと」、「好きなこと」に向き合い、一生懸命それらを探求することこそが、幸せな人生なのではないかと僕は思う。