今まで“本気で”何かを頑張ったことがあるか
あなたは、今まで本気で何かを頑張ったり、打ち込んだりしたことがあるか。
「頑張ったことの1つや2つあるわ!」と思った人も、一旦耳を傾けてほしい。
そして自分の今までの人生を振り返ってみてほしい。
例えば、学校のテストや、受験勉強、部活動など。
社会人であっても、自分に振られた仕事や、仕事で使う資格の試験などなど。
または人間関係の中でもあるかもしれない。
そうやって見てみると、今まで何一つ、ほんの一瞬たりとも頑張ったことがないという人のほうが少ないのではないかと思う。
しかしもう一つ条件を付け足すと、自信を持ってYESと答えられる人の割合はぐんと減るはずだ。
「強制されない分野でいかに頑張ったか」だ。
わかりやすく説明する。
先ほど例に挙げた学生生活で頑張ったことに関してだと、これらは、学校に属しているが故の頑張りであって、自主的な頑張りではない、と僕は考えている。
「先生が言っているから」や、
「周りの人がみんなやってるから」や、
「それをやらなければ社会的に遅れを取ってしまう」などなど、
それらには何かしらの外的な圧力や、組織に属しているからこその強制力が生じているのではないだろうか。
もっと簡単に言うなら、「頑張らなければいけない雰囲気、頑張ることが普通とされる環境だった。」と言い換えることもできる。
つまり「強制されない分野でいかに頑張ったか」とは、「“別に頑張らなくてもいい”という環境下で、どれどけ頑張ったか」ということだ。
例えば、趣味や好きなことであるとか、または、誰に決められたわけではなく自主的に始めたことであるとか。
「それを頑張らなくても別に誰にも何も言われないよ」という状況で、自主的に頑張った経験があるか、ということだ。
「監視」という言葉で説明してもわかりやすいかもしれない。
つまりはその頑張りを監視する“誰か”が、他者であるか、自分であるか。
どうだろうか。
その頑張りを監視する者が自分しかいなかった状況で、あなたはどれだけ頑張ったことがあるだろうか。
「俺はどんな状況でも頑張れるぜ!」という人は、とても素晴らしい。僕も見習いたい。
しかしそういう人は少ないはずだ。
「別に頑張らなくていいなら、わざわざ頑張りたくない」
「別にそんなこと気にしてないし、意味もない」
とお考えの人も、それはそれでいいと思う。
しかし僕は今説明したような、「強制されない分野での頑張り」は人生においてとても大切なことだと思っている。
「そうやって偉そうに語ってるけどお前はどうなの?」と思っている人に対して、僕自身の話をすると、僕もやはり学生時代は流れに流されるがままそれなりに頑張り、監視する者が自分しかいなかったら怠けるような人間だった。
しかし社会に出てここ数年、「人生」や「幸福」について考えるようになってからは、誰に強制された訳でなくとも、自分で自分を監視し頑張った経験はいくつかある。
その1つは、絵だ。
僕は絵を描くことが昔から好きだったが、本気で描き始めたのはここ2、3年のことだ。
絵を展示したり、イベントに出てイラスト集を販売したり、頼まれた絵を描いたり。
どうやったらもっと上手くなるかを常に模索し、時には寝る間を削って絵を描いていた。
しかしそれは、別に頑張る必要なんてない。
誰かに言われたわけではなく、自分が勝手にやっていることなので今すぐに辞めたっていいのだ。
また、このブログでも何度か書いてきた海外留学もまさしくそれだ。
留学する必要なんて全くなく、もはや理由だって大したものはなかった。
誰にも関係ない、自分しか見ていない。
しかし頑張る。
そこに意味があるのではないかと僕は思うのだ。
何にも強制されず頑張るということは、正真正銘自分の力だ。
何も意識せず、ただなんとなく流されて生き、必要に迫られなければ頑張らない人生をもし歩んでいたら、得られなかったものを沢山見つけた。
また、そうやって頑張った経験は、自信に繋がる。
僕は誰に見られていなくとも、自分で自分を奮い立たせ、頑張ることができたという事実が、次に何かを始める時に背中を押してくれる。
人生で大切なことというのは、人それぞれあると思う。
なので一概にこれが全てだ、これが正しいと言うつもりもない。
しかしこの記事を読んで、
「自分も何か始めてみようかなー」とか、「諦めてたけど、もうちょっと頑張ってみようかな」と少しでも思ってくれる人がいたなら、この上なく嬉しい。
大したことじゃなくていい。
みんな留学しようぜ!とかそういうことではなく、もっと小さなことでいいのだ。
日々の生活の中で、
例えば普段読まないような本をちょっと読んでみるとか、
運動不足だからちょっと散歩しようとか、
朝早く起きようとか、
そんなことでいいのだ。
それがきっかけになり、その小さなことを積み重ねていくだけで「自分で決めたことを守り、頑張れる自分」になれる。
この先生きていく中で壁にぶつかったり、問題を抱えることがある必ずある。
しかしそういった経験があったなら、「俺は頑張れる。」と思える。
それは苦難を乗り換えていける力であり、自分だけの強い武器になりうると、僕は思う。
やるべきことがあるのにダラダラしてしまう時の対処法
昨日の記事の中で、「もはや人生は小さな決断の連続といえる。」という言葉を書いたのだが、それについて補足というか、更に深く自分の考えを書いていく。
仕事が休みで、一日中家でゴロゴロ。
特になにもせずぼーっとテレビを観たり、YouTube観たり。
寝て、食って、また寝る。
なにも生産しない一日。
休日にこういった生活をする人は一定数いるのではないだろうか。
なんて幸せなことなんだろう。
それ自体は特に問題はないのだが、問題なのは、「やるべきことがあるのに」という前提がある時だ。
耳が痛いと思う人もいるのではないだろうか。
僕自身、やらなきゃいけないことがあるけど、めんどくさくて先延ばしにしてしまうことは多々ある。
そういう時に意識すべきは冒頭で述べたとおり、「人生は決断の連続である」ということだ。
「決断」と聞くと、人生を左右するような分岐点に立たされた時のようにイメージするかもしれないが、実はそうではない。
今この瞬間、一瞬一瞬を決断し、それを生まれてから死ぬまで繰り返している。
なんとなくぼーっとしている時、惰性でダラダラしている時も、あなたは数ある選択肢の中から選んでその行動をしているのだ。
それに気づいた時、今やるべきことはなんなのかを冷静に考えることができるのではないだろうか。
行動を変えるにはまず意識を変えなければならない。
僕はこの考え方を身につけてから、多少なりとも人生が変わったと感じている。
今この記事を今読んでくれている方にも、意識を変えるためのきっかけ程度になってくれればと思う。
“プライド”について
プライドとは、、、
誇り、自尊心、譲れないもの。
などの意味を持つ言葉で、誰しもが持っているが捉え方や、その強弱は人それぞれだろう。
また、ネガティブな意味で使われることもあり、僕自身プライドという言葉はあまり好きではない。
「絶対に譲れないもの」というのは生きていく上での芯というか、人生の道に迷った時の案内図のような役割をしてくれることもあると思うのだが、時としてそれらは障害になることもあるのではないか。
完全にプライドを捨てることは不可能だが、余りに執着してしまうと柔軟な考え方の妨げになったり、他人とぶつかることもある。
と、ここまで自分の考えを述べてきたが、なぜこのテーマを記事にしようと思ったのかというと、年末の人気番組「ガキ使」を見て、思うことがあったからだ。
去年のガキ使を見た人ならわかると思うのだが、今回印象的だったのはSMAPを抜けた草薙、香取、稲垣の3人。シンプルにめっちゃ面白かった。
SMAPとして活動していた時期は紅白歌合戦を始めとする音楽番組に、アーティスト、ジャニーズとして出ることが主だったのだが、脱退したことでバラエティの世界に踏み込んできた様子が伺える。
しかも、今回のガキ使を見て感じたのは、3人は“お笑い”を全力でやっていた。
素直に面白かったし、僕は彼らをかっこいいなと思った。
SMAPの頃はここまでやらなかった、いや、出来なかったはず。
ジャニーズとしての肩書、背負っているもの、そしてプライドがあったからだ。
ここでまた話が飛ぶのだが、僕の好きな漫画「ワンピース」に出てくるあるキャラクターのことを思い出した。
「青雉」だ。
今日は「元SMAPの3人」と漫画ワンピースの「青雉」に着目して「プライド」について僕が思っていることを書く。
ワンピースを知らない人のために簡単に説明する。
海軍のトップ元帥が辞職したことにより、次期元帥の候補に、実力のある赤犬、青雉の二人の名が上がった。
彼らは対立し、次期元帥の座を争って決闘し、その規模はとある島の環境を変えてしまうほど激しいものだった。
結果、勝者は赤犬。
赤犬の下には就きたくない青雉は海軍を去った。
現在は世界を転々とし、その動向や目的は定かではない。
この、一見何も関係のないかのように思える「元SMAPの3人」と「海軍を辞めた青雉」。
そこには共通点がある。
それは、「今まで背負っていた大きな肩書、役職、プライドを捨て置き、新しい環境で生きていく」というところだ。
大規模で影響力の強い組織に所属し、実力もあり、経済面も安泰、そういった恵まれた立場を捨てるというのは非常に勇気がある。
そこまで気づいたキャリアを失い、ゼロからのスタートになるのだ。
新しい環境で通用するかどうかもわからない。
生半可な覚悟ではできない決断だ。
青雉は、赤犬に敗北し海軍を辞めたが、別に辞めなくてもよかったはずだ。そのまま赤犬の元で、今まで通り海軍としてやっていくことは何も不自然じゃないし、理にかなっているとも思える。
元SMAPの3人も、ジャニーズを辞めたからといって音楽活動に専念することもできたはずだし、バラエティ番組で体を張って笑いを取る以外の選択肢もいくらでもあるはずだ。
そういった意味では、それ自体もある種のプライドであるとも言えるのだが、着目すべきはその後の動向と真意だ。
大きな組織から抜け、自身の立場、役職、キャリアを全て捨て去り身軽になれば、肩の荷も降り、視野も広がる。
自分に向き合う時間もできるし、その中で「本当にやりたいこと、好きなこと」について考えることもできる。
また、人は誰しも安定を求め、変化を嫌い、長いものに巻かれたいし、リスクを負いたくないと考える。
しかしそれらの考えは、自分の成長の妨げになるのではないだろうか。
成長するためには、変化を恐れず、新しいことに挑戦し、時には持っているものを捨て、住み慣れた環境から離れる必要があると思うのだ。
安定志向では進化はできない。
先程挙げた例の他にも、そういった人は度々見かける。
元いた世界を飛び出し、新しい環境で生きていく決断をした人を僕はとても魅力的に感じるのだ。
僕自身、そういった決断に迫られる時が今後来るかもしれない。
いや、もはや人生は小さな決断の連続といえる。
失うことと、新しい世界で生きていくことの恐怖に負けず、自分の心の声に耳を傾けて「本当にやりたいこと」を突き詰めていきたいと僕は思っている。
人に何かを教えるのって難しいよね
最近、日記としてブログを活用することも多くなってきている気がするが、今日は祖母がやっとスマホに乗り換えたこと、そこから感じたことなどを書こうと思う。
昔から扱い慣れてるガラケーのほうがいいと言い張る祖母に対して、絶対スマホの方が便利だしなんならガラケーより操作簡単だよと主張する僕。
確かに普段、電話やメール、カメラしか使わない祖母からしたらスマホに変えるメリットよりも新しいことを覚えることの億劫さのほうが強いのかもしれない。
しかし僕は前々から、スマホでできること、便利さを教えたり、実際に触らせてみたりして、「未知のもの」に対する抵抗を出来る限り少なくしようと試みてきた。
そして今日、ここ数年続いていたこの対立がついに終止符を打つ結果となった。
どーん。
『BASIO3』
初心者に優しい、シニア向けスマホ。
しかしスマホ慣れしている現代の若者と、ガラケーユーザーの高齢者ではやはり慣れるまでの差が出る。
LINEの使い方、カメラ、電話などの基本設定は勿論のこと、そもそものスマホとは何か、wi-fiとは何か、データ通信とは何かなど、そもそもの概念を説明しなければならない。
さてここで気付くのは、人に何かを説明することの難しさだ。
これが苦手だと感じている人は多いのではないだろうか。
僕はどちらかというと人に何かを教えるのは好きだ。
そういう時に自分が気を付けている、大事にしていることは、「相手は何をわかっていて、何を分からないのか」をよく観察することだ。
説明をしていく中で、相手の知識レベルを探り、そのレベルに合わせて何を、どのくらい、どこまで説明しなければいけないのかを分析する。
もっと簡単に言うと、「相手の気持ちになる」だ。
それに限る。
わからない人の気持ちがわからないようでは、わかるように説明できるはずはない。
「こんなこともわからないのか!」と、よく部下や後輩を怒鳴る人がいると思うが、僕はそういう人を見ると、単に教える人の力量不足としか思えない。
「こんなこと」もわからない人の目線に立つ能力が欠けているが為に、教えること、説明することを放棄しているようにしか見えない。
教えるのが上手い人というのは、わからない人の気持ちがわかるのだ。
でも、誰しも最初はわからなかったはずだ。
仕事でもなんでもそうだ。
だが段々とわかっていくうちに、自分もわからなかった時期があったということを忘れてしまう。
最初からわかっていた気になってしまい、わからない人を見下し、叱る。
「教えるのが上手い人」と「下手な人」、その違いは、「自分のわからなかった時期のことを覚えているか、忘れているか」であるともいえる。
何事もやはり「初心を忘れるべからず」なのだなーと再認識した一日だった。
インプットとアウトプット
何かの情報や知識を自分の中に取り入れる作業をインプット、それらを外に発信する作業をアウトプットという。
人は誰しも無意識ながらもこの作業の繰り返しで生きているのではないかと思う。
どちらかに片方ということでなく、両方が揃って初めてその役割を果たす。
「インプットすることだけが勉強」という考えには賛同しかねる。
アウトプットすることで更に理解を深められるのではないか、という僕は考える。
アウトプット、つまり何かを発信するということは、その発信する内容が頭に入っていなければ達成できない。
そして口に出したり文字に表したりすることで自分の頭の中の情報や意見を整理することができるし、何が分かっていないのかも認識することができる。
僕はその、意識的に自分に必要な情報をインプットし、それらを整理、客観的視点で自分の考えを見るためにもアウトプットをする、というのを日々繰り返している。
例えばこのブログもそうだ。
書くネタやテーマがなければまず記事は書けない。何かを調べたり、日々の生活のなかでの気づきや、何か感じた事を記事にする。
また、普段僕は本やネットで興味のあることについて調べ、それを友達や身近な人に話したりする。
調べるだけではそれが完全に頭に入っているかわからない。
調べたことを説明する過程があると、自分では理解していたつもりのことでも、実は半分も頭に入っていなかった、ということに気づくことも多々ある。
と、ここまで話したのはあくまで僕の持論なのだが、それを踏まえて今現在の僕の生活を見てみる。
僕は東京に住んでいるのだが、この年末年始は実家に帰省している。
毎回そうなのだが、僕はこの帰省の期間はインプット作業に専念することを意識している。
過去に父親に関する記事でも書いたが、
僕は父親を尊敬していて、彼と過ごすことで学ぶことが多いので、この時間は自分にとってとても大切であると感じている。
また、まだ読んでいない漫画や、本をゆっくりと読む時間としても活用している。
側から見たら正月休みでダラダラ漫画を読んでいるだけように見えてしまうかもしれないが、漫画を読むことも立派なインプットであると思っている。
東京で過ごしていると、仕事などで自分の時間は限られるし、娯楽に溢れているので、勉強に完全に集中できなくなりがちだ。
そうしてインプットする時間が取れなくなっていくと、アウトプット過多になってしまう。
アウトプット過多になると、入ってくる情報が少なく、出ていく量が多いので必然的に、発信する情報が薄くなる。
だからこうして度々ゆっくりとインプットする時間を設けることが大切なのではないかと思うのだ。
こうやって記事を書いている今も、やはり自分の考えを整理でき、新たな気づきが生まれる。
「まるで川のようだな」と思った。
山に雨が降り、川を流れ、海に帰り、海水が蒸発し雲になり、また山に雨を降らす。
今回話したインプット、アウトプットの理論と照らし合わせると、自分の中に知識が流れ込み、それをまた外へ流していく。
自分に流れ込む知識という水が少なければ、外へ流れていく水の量も減るし、外へ出る水の量が増えれば必然的に、中へ流れ込んでくる水の量も増える。
先ほど話した「実話に帰省しているこの時期はインプットに専念する」というのはいわばダムの役割かもしれない。
なんとなく水が足りないな、と感じた時に、一旦流れを塞き止めそこに貯めておく。必要となった時に使えるときのために。