何かの情報や知識を自分の中に取り入れる作業をインプット、それらを外に発信する作業をアウトプットという。
人は誰しも無意識ながらもこの作業の繰り返しで生きているのではないかと思う。
どちらかに片方ということでなく、両方が揃って初めてその役割を果たす。
「インプットすることだけが勉強」という考えには賛同しかねる。
アウトプットすることで更に理解を深められるのではないか、という僕は考える。
アウトプット、つまり何かを発信するということは、その発信する内容が頭に入っていなければ達成できない。
そして口に出したり文字に表したりすることで自分の頭の中の情報や意見を整理することができるし、何が分かっていないのかも認識することができる。
僕はその、意識的に自分に必要な情報をインプットし、それらを整理、客観的視点で自分の考えを見るためにもアウトプットをする、というのを日々繰り返している。
例えばこのブログもそうだ。
書くネタやテーマがなければまず記事は書けない。何かを調べたり、日々の生活のなかでの気づきや、何か感じた事を記事にする。
また、普段僕は本やネットで興味のあることについて調べ、それを友達や身近な人に話したりする。
調べるだけではそれが完全に頭に入っているかわからない。
調べたことを説明する過程があると、自分では理解していたつもりのことでも、実は半分も頭に入っていなかった、ということに気づくことも多々ある。
と、ここまで話したのはあくまで僕の持論なのだが、それを踏まえて今現在の僕の生活を見てみる。
僕は東京に住んでいるのだが、この年末年始は実家に帰省している。
毎回そうなのだが、僕はこの帰省の期間はインプット作業に専念することを意識している。
過去に父親に関する記事でも書いたが、
僕は父親を尊敬していて、彼と過ごすことで学ぶことが多いので、この時間は自分にとってとても大切であると感じている。
また、まだ読んでいない漫画や、本をゆっくりと読む時間としても活用している。
側から見たら正月休みでダラダラ漫画を読んでいるだけように見えてしまうかもしれないが、漫画を読むことも立派なインプットであると思っている。
東京で過ごしていると、仕事などで自分の時間は限られるし、娯楽に溢れているので、勉強に完全に集中できなくなりがちだ。
そうしてインプットする時間が取れなくなっていくと、アウトプット過多になってしまう。
アウトプット過多になると、入ってくる情報が少なく、出ていく量が多いので必然的に、発信する情報が薄くなる。
だからこうして度々ゆっくりとインプットする時間を設けることが大切なのではないかと思うのだ。
こうやって記事を書いている今も、やはり自分の考えを整理でき、新たな気づきが生まれる。
「まるで川のようだな」と思った。
山に雨が降り、川を流れ、海に帰り、海水が蒸発し雲になり、また山に雨を降らす。
今回話したインプット、アウトプットの理論と照らし合わせると、自分の中に知識が流れ込み、それをまた外へ流していく。
自分に流れ込む知識という水が少なければ、外へ流れていく水の量も減るし、外へ出る水の量が増えれば必然的に、中へ流れ込んでくる水の量も増える。
先ほど話した「実話に帰省しているこの時期はインプットに専念する」というのはいわばダムの役割かもしれない。
なんとなく水が足りないな、と感じた時に、一旦流れを塞き止めそこに貯めておく。必要となった時に使えるときのために。