漫画から学ぶ人生哲学「進撃の巨人」
漫画とは、ただ単に物語を楽しむだけでなく、時には自分の考え方や価値観に大きく影響を与えてくれることもある。
そういった漫画に出会ったことがあるという人も多いのではないだろうか。
今日は漫画「進撃の巨人」から、そのメッセージを僕なりに解釈して説明していこうと思う。
(※ここからは一部ネタバレを含みます。これから読みたい人は注意!)
人間を食らう巨人が世界に溢れており、その脅威から逃れるために人々は高さ50メートルの三重の壁を築いた。壁の中にしか人類は存在しておらず、巨人や外の世界については謎である。
ある日超大型巨人が出現し壁を蹴り破り、壁の中に巨人が侵入。束の間の平安は崩れ、巨人との人類存亡をかけた戦いが始まる。
というところから物語が始まる。
僕はこの漫画が大好きなのだが、僕の周りではアニメで部分的にだけ内容を知っていたり、途中までで読むのをやめてしまったりと、物語を追いながらも、その真意を読み解こうとまでしている人は少ない。
物語の序盤は「壁の外から迫る脅威と戦う」というとてもわかりやすい展開であるのに対し、次第に人同士の争いへと発展していく。
それぞれの組織や人の思惑があり、裏をかこうと策略を立て、騙し合い暴き合いの心理戦が続くシーンもある。
多くの人はこれを難しく、退屈と感じてしまうのだと思う。
だから序盤の“わかりやすい”話までは読んでいたけど、人同士の複雑な展開になってくるとついていけなくなるのだ。
僕はその中盤からの展開こそがこの物語の真髄だと思っている。
特に僕が着眼したのは、正義や悪という概念についてだ。
というのも、この漫画には悪役が登場しない。
あからさまに極悪非道であり、いかにもな悪人というものが出てこないのだ。
主人公と敵対する派閥、組織の人間がいたとしても、彼らには彼らなりの思想、正義があり、それらを守る為に戦っている。
人を騙したり、裏切ったり、殺したりする人もいるが、そこに悪人などはいない。
ただ人がいるだけである。
これは、現実の世界にも言えることではないのだろうか。
そもそも世の中の出来事を善悪などでは判断できないのだ。
歴史を見てみれば、今では考えられないことが当たり前だった、ということはいくらでもある。
正義や悪などといったものは主観でしかなく、時代、国、人によって大きく異なるのだ。
「正しさ」とは曖昧で脆い。
これは日常生活の中でも生きる考え方なのではないか。
身の回りにいる人、これから出会う人、すべての人々に、それぞれの正義や悪の概念があり、時には互いに相容れない価値観の人と対面することもあるはず。
しかし、先程まで書いたことを念頭に置いて人と接していれば、そこでぶつかることなく相手の価値観を受け入れ、接することができるのではないか。
そうやって漫画から、考え方を学ぶことができる。
漫画は人に感動を与えもするし、生きていく上で重要な人生哲学を享受してくれもするのだ。
幸せに生きる絶対条件
あなたは今、幸せだろうか?
この問いに「はい」と自信を持って即答できる人は中々いないのではないだろうか。
僕はふとした時に、自分に問いかける。
日本という恵まれた国に生き、寒さに震えたり、飢えに苦しんでもいない。蛇口をひねれば水は出るし、指も5本ずつ生えてる。
とても幸せ者だ。幸せな環境で生きることができている。と、確認作業を時折行う。
「マズローの五段階欲求説」も有名である。
- 生理的欲求
- 安全の欲求
- 所属と愛の欲求
- 承認の欲求
- 自己実現の欲求
この五段階の欲求を人間は誰しも持っている。
1を満たした段階で2を求め、2から3、3から4、といったように今ある欲求を満たすと、次々に更に上位段階の欲求が生まれるという仕組みを表したものだ。
このように「幸せ」に関する考え方は色々とある中、僕なりの幸せな生き方についての考えをまとめてみた。
それはずばり、
「死を意識した時、人は生を全うできる」というものだ。
※ここからは「生死」に関する内容を含むので、敏感な方や、人によっては不謹慎に感じてしまう可能性があるので、注意してほしい。
まず、余命宣告を受けたガン患者は、残りの余生をどう生きるのか、という例を挙げる。
自分の死が間近であることを告げられれば、誰しも絶望することだろう。
しかし、自分の死を見つめるということは、残りある時間に真正面から向き合うことに繋がる。
余命2ヶ月と宣告されたとある末期癌患者が、昔からやりたかった登山をそこから始め、エベレストの登頂を果たし、1年、2年とその後も生き、数々の山へ挑んでいくというエピソードを聞いたことがある。
死を意識してから、それからの人生についての考え方、生き方が、ガラッと変わったのだ。
他にもいくつか似たような話を知っているが、要約すると、「死に屈することなく、限られた命の中でどう生きるか」を考えることが重要ということだ。
ここまでの話を理解、共感してくれた方は是非、自分自身のことだと思って読んでほしい。
先程はわかりやすいように、余命宣告を受けた末期癌患者を例に挙げたのだが、何もその条件に限った話ではなく、全人類に言えることなのだ。
必ず来る終わりが、早いか遅いかだけだ。
つまり「残りの寿命」と、「自分の自分の人生に対して真っ向から向き合い一生懸命に生きること」は全く関係ない。
いつか必ず訪れる死。
それが明日だろうが2ヶ月後だろうが、70年後だろうが、今この瞬間を全力で生きることが重要なことには変わりないのだ。
日々それらを意識していれば、毎日をいきいきと生きられるのではないかと僕は思う。
「死を意識した時、人は生を全うできる」
これは僕の持論の中でも中核を担っており、考え方のベースになっているといっても過言では無い。
音楽と記憶にまつわる話
音楽を聴くと、その曲を聴いていた当時の記憶が呼び起こされるといった経験は誰しもあるのではないか。
普段閉じている記憶をしまった引き出しを開ける鍵の役割を果たしていると感じる。
また、これは僕個人の感覚の話なのだが、そのように呼び起こされる記憶というものには共通点があるようにも思える。
それは、「圧力」だ。
その圧力とは広い意味で、青春の日々、恋愛、仕事や人間関係など何かしら自分に大きく影響を与えるものと共存していた日々。
それらによって受けていた圧力が、強ければ強いほど、その当時に聴いていた音楽に記憶を深く絡めて引き出しにしまっているような感覚だ。
この引き出しが鍵によって開く瞬間が好きだ。
しかし、僕は好きな音楽をあまり聞かない。
それはなぜかというと、音楽で記憶の引き出しを開ける作業を何度も繰り返していると、その音楽が鍵としての役割の力が薄れてくるからだ。
昔聞いていた音楽を聴いて、当時の記憶を呼び起こしてると、そのうち「昔聴いていた音楽」という事実から、「最近聴いている音楽を」に上書き保存されてしまう。
記憶の引き出しを開ける鍵ではなく、現在進行形の好きな音楽として認識されてしまうのだ。
だから僕は好きな音楽を、ここぞという時以外、無闇やたらと聴くことを避けている。
好きな音楽は、そのときの記憶の中に閉じ込めておきたいのだ。
そしてたまに無性に会いたくなった時に、会いに行く。
田舎はやることがない?都会はなんでもある?
タイトルの通りなのだが、こういった内容の話が会話の中で聞こえてくることが多い。
「田舎はやることがない」
「東京(都会)はなんでもある」
誰しも聞いたことがあるセリフだと思うし、それに共感する人も多いのではないのだろうか。
今回は、誰しもが抱くこの概念をばっさり切ってみようと思う。
まず、どういうことなのか。
田舎には、畑や山しかないしコンビニも少ない、夜にはお店も早く閉まってしまう。
それに比べて都会はなんでもある。
そう思う人が大半なのではないだろうか。
僕自身、東北の田舎から東京に出てきて5年ほど経つ。
やはり都会に憧れていたし、一年目の頃は感動しはしゃぎ回ってた。
しかし「田舎はやることがなくて、都会はなんでもある」と昔信じていたことも、今は本当にそうかと疑っている。
もはや逆に、田舎こそなんでもできるんじゃないか、と。
今はネットが発達しているから、情報もいくらでも手に入るし、買い物も家から出ずにできるようになった。
都会に暮らす必要性を、そこまで感じない。
加えて、東京にワンルームで一人暮らしするとなると、狭い。
庭付きなんてほとんどないし、いかんせん場所がない。
花火とか、みんなどこでやってるの…?
秋になったら河川敷で焼き芋とかしたくない…?
キャッチボールとかしたくても、よっぽど広い公園とか行かないとできない。
といったかんじに、場所が必要になることをやるにはとにかく都会では不都合だと感じる。
「都会にはなんでもあるから、なんでもできる」とは、実は幻想で、田舎だからできることは多い。
もはや、都会でしかできないことの方が少ないように思える。
つまりは、アイデア次第なのだ。
何かやりたい、楽しいことをしたいというアイデア次第で、いくらでもなんでもできる。
田舎か都会かとは、関係ないのだ。
人生は発想力しだいで楽しくも、退屈にもなるのだ。
最近の若者は“つまらない”?
実家に帰省しました!
2週間ほどいる予定なのだけど、この期間は、留学レポシリーズをお休みして、自分の考えたことや自分なりの哲学などを記事にしていこうかな〜と考えてる。
というのも、元々ブログを始めるにあたって、留学のことは書くつもりだったが、こんなに長編で書く予定ではなかったのだ。
普段の生活の中での気づきや、悩んだこと、またその悩みに対してどう乗り越えてきたかや、本などで勉強した哲学、心理学、考え方など、自分が生きていく上で大切だと思っていることを、他の人にも共有したいという思いが強いのだ。
同じことを考えている人と共感しあったり、普段そういうことをあまり考えない人が考えるきっかけになればいいな〜と思っている。
今日の話は、昨日の記事にも関係してくる内容になっている。
昨日の記事でも書いたとおり、僕は父親を尊敬している。
年齢を言い訳にせず。日々成長することを怠らない。
好奇心が旺盛で、新しいことに興味を示しチャレンジする。
目の前のことに一生懸命で、努力する過程すらも楽しんでいる。
僕にとってそういう人はとても魅力的だと感じる。
しかし、僕の周りにはそのような魅力的な人が極めて少ない。
なんとなく惰性で生きていて、仕事のことで精一杯。好きなことに向き合う暇も、気力もない。
父の周りはそうではない。
父親ほどまでとはいかずとも、父の年代の人々は前提としてそれらのことを理解している人が多いと感じるのだ。
今の若者と、父親世代が若かった頃では価値観が違う。
人によってその差はあるし、微妙な違いだとも思う。そしてあくまで僕個人の偏見を含んだ主張ということを分かった上で読んでもらいたい。
今と昔の若者のちがい。
「昔」というと抽象的なので、父親の年齢から計算するに20年くらい前、と規定する。
簡単に整理すると、昔の若者は魅力的で、今の若者はつまらない。となる。
何故なのか。
昔は今と比べて科学技術が進んでない。代表的でわかりやすい例を挙げるとスマホの有る無しだ。
昔の若者、特に田舎の若者は娯楽が少ない。
(父親の話を聞く限り、麻雀したり釣りをしたりが主だと感じる)
しかしそれだけでは遊びのネタが尽きるのだ。退屈になる。
そうなると人は、自分で考えるのだ。
何か面白いことはないか、こう工夫すれば面白くなるのではないかと、つまらない現状を変えるべくアイデアを絞り出す。
ここが重要なポイントだ。
一方、今の若者はどうだろうか、テクノロジーの進歩で、手の届く範囲に娯楽が腐るほどあるのだ。
だから自分で面白いことを探したり、追求したりしない。
具対的にいうと、「承認欲求」という非常に強い欲求を人は持っている。
これは非常に強力で、依存度が高い。
何気ないつぶやきに対して「いいね」を貰ったりお互いにフォローしあったりすることで、承認欲求が満たされ、エンドルフィン(脳内麻薬)が分泌される。
SNSの台頭で、何か物足りなさを感じたり、寂しさを感じたりしても、手のひらサイズの板の上でほとんどのことが解決してしまうのだ。
自分の頭で考え探さなくても、欲を満たせてしまう。
一方昔の若者はそうではない。
人生を楽しくするためには、自分の頭で考え、足を運び、手を動かさなければならないし、そういうことをみんな知っている。
そして新しいことに挑戦したり、行動を起こすためにはエネルギーが必要だということも知っている。
人生を楽しくすることとは、そう簡単ではなくて、楽しく遊ぶためにはそれ相応の労力が必要だ。という共通認識をみんな持っているのだ。
時代が変わった今もそういった意識は、潜在されているはず。
そこは見習うべき点であると思う。
現代の、スマホで欲求の処理を済ませて、楽しむことへの努力を怠る若者に、少しだけでいいので考えて欲しい。
本当にそれが幸せかなのか。
人生を楽しくするためには、新しいことに挑戦することや、行動を起こすことが必要で、それらはそれなりの労力が必要なのだ。
「楽しいこと」、「好きなこと」に向き合い、一生懸命それらを探求することこそが、幸せな人生なのではないかと僕は思う。